夕立ちと、ゴセンゾの世界
オウジです。もうすぐお盆ですね。お盆は、先祖の霊と対面する不思議な時間。僕にとって、もっともワクワクする時間のひとつだ。
「ゴセンゾさまが帰ってくる」
子どもの頃、お盆になるといつもそのゴセンゾという存在を不思議に思ったものだった。
京都の片田舎にある我が家では、お盆になると近所の子供らがみな、お線香を片手に通りに現れる。お寺の入り口まで、ゴセンゾの霊を迎えに行くのだ。たいていはお母さんやお父さんと一緒に出てきて「お線香の煙に乗って、ゴセンゾさまが帰ってくるのよ」なんて教えられながら。でも子供は線香を振り回したりして、そのたびに「ゴセンゾさまさまが落っこちるよ」とか言われながら。地方によって違うが、これが迎え火というやつである。
幼心にそもそも「ゴセンゾ」とは一体どういう人々なのか不思議に思ったものだった。仏壇にやってくるというのも不思議だった。仏壇というのは僕らの家より何倍も小さく、インテリアも全然ちがうものばかり。僕はてっきり、自分よりも小さい人々だと思っていた。
そして僕のゴセンゾの場合、名前が「クマゾウ」とかいったりするから、今僕らがいる世界とまったく違う世界があって、ゴセンゾというのはそこにずっといる人種のこと、そんなふうに思っていた。
「おじいちゃんももうすぐここに入るんや」と、仏壇を見て話すじいさん。「こんな狭いところに入って何が楽しいんだろう」と、僕はけっこう浅はかに考えてしまっていた。しかし、こうしたことを何年も続けるうち、仏壇の中の不思議な世界と、五感で感じる今の世界には、何らかの圧倒的な隔たりがあることに気づき始める。ここがいわゆる大人が子どもに死というものを教える時間なのだ。しかし、死への恐怖というのはあまりなく、それは僕にはとてもファンタジックな世界に映っていた。
お盆に近づくと、入道雲がひときわ大きくふくらみ、夕焼けが空を真っ赤に染める。ものすごい夕立や、熱気にさらされて、なんとなく「ただならぬことが起きようとしている」感を高めてゆく。
夏のお盆の頃というのは、日本文化の精神的な意味合いにおいて、生の世界と死の世界の境界がもっとも曖昧になる時期なのかもしれない。オバケが出る季節というのも「なまあたたかい風が吹いてきて〜」なんて言うぐらいだから、お盆にちなみ、夏を舞台にしている場合が多い。
世界的な風習を見ても、たとえばハロウィンは、日本のお盆と非常に似た文化でもあったりと、死を思う時間というのを設けていることが多い。そして、地球上で人間だけが死について考える。非常に孤独な精神を持った生き物だと思う。
そして世界中の文化を見ても、死者をぞんざいに扱う文化は聞いたことがない。死を考えるという孤独な精神を持って生まれたからこそ、人々はずっと死を恐れ、死後の世界を畏れてきた。哲学を見てもそうだが、人間の向かう思考の方向性は、以外とそれほど多くもないのだ。
あと、僕の勝手な想像なんだが、世界中の多くの信仰が雲の上に神の世界を見ている。これは人間が地球の外から来たことの現れなのではないか、とも思ったりする。遺跡のマチュピチュや六本木ヒルズじゃないが、人間はできるだけ天空に近いところに自分を位置づけたいという欲求を文化的に持っている。しかも世界的に。これも不思議なものだ。
今でも、ゴセンゾが家に来ているときというのは、なんとなく夜眠るのが怖かったのを思い出す。得体の知れない不思議な世界からの来客はやはり、不気味だった。
そして再び、線香を持ってお墓へとゴセンゾを連れ帰る。送り火である。
京都では、五山の送り火が有名だが、この行事もゴセンゾの霊をあの世に返す火だ。
夏というのは、生と死がとても近づく不思議な時間。その感覚はずっと僕に息づいている。
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