ヒマ人・仏陀に捧ぐ、サンセット東京
オウジです。今日は晴れたね。
仕事もこれといって滞りなく、健康状態もちょっと無茶ができるぐらい良好、これといって金銭的な不自由もなく、恋人も友達も会おうと思えばすぐに会えるし、むしろちょっとしたパーティにも呼んでもらえたりもする、とても幸せなはずなのに、でも何かまるで見えないもうひとつの胃袋が空腹でありつづけるような感覚、
それをひとは虚しさと呼んで片付けている。
そしてこういう状態に陥ったとき、僕が思うのは常に過去の人々の思考だったりする。木々に囲まれ、狩りをして腹を満たし、火以外の灯りが無かった頃、その頃の人々は虚しさを感じることはあったのだろうか?
そうして考えを巡らせてゆくと、虚しさについて、もっとも壮大な考えをめぐらせたのは仏陀に違いないと僕は思っている。彼の言行録が『ブッダの真理のことば・感興のことば (ワイド版 岩波文庫)』という書物になっていて、けっこうトイレでよく読む。
そして彼は、稀代の暇人だった。
この書物には彼の壮大な思考の営みが記されている。
それらは彼が暇をどう愛するかについて巡らせた思考が満ちている。
暇という無から、思考の産物である「ことば」の有を生み出す、
彼は思考の錬金術を地で行った唯一の人間なのだ。
彼ほど暇を愛する努力を生涯惜しまなかったひとはいなかったのではないかと思う。暇を愛するには努力が必要なのだ。なぜなら、暇を埋めるため、虚しさを埋めるために僕らは働き、人を愛し、何かを欲するからだ。
暇とは何もしないこと。何もしないためにはそもそも欲を捨てる必要がある。
性欲、食欲、睡眠欲、たまに想像欲なんかも。
それらをすべて捨てること。その絶え間ない努力が暇を愛することに繋がるのだ。
まさに「欲を捨てれば、満たされていると気づく」(仏陀)である。
どうやって捨てるか。とにかく考えて考えて考え続けるのである。考え続けているうちは、頭が飽和状態となり、欲を思う感覚が消滅に向かう。そのプロセスを「悟り」と言う。
「人に教えるように、自分も行え」(仏陀)
そうして生み出された言葉の数々は、隙がない。
付け入る隙がないものというのを「完成度が高い」という。それゆえ、彼のように暇を愛そうと多くの人が「悟ろう」とした。
彼の書では、そうした暇を愛するためのたゆまぬ努力が全編にわたって展開されている。つまり、本当に暇人になりたい暇人にはもってこいの書なのである。
「孤独に歩め、
悪を成さず、
求めるところは少なく。
林の中の象のように。」(仏陀)
虚しきこころの空白に、すっと染みこんでゆくような言葉だ。
都会の喧騒の中で感じる何かの虚しさが、
彼の暇を愛する営みの中で生まれた言葉がなぜか癒してくれる。
とても不思議で、素敵なこと。
欲を持って何かを成し得たとき、人は満ちる。
欲を捨てて何もしないとき、彼は満ちた。
とても不思議で、素敵なこと。
「他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。」(仏陀)
I love you, budda.
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