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スタッフブログ

『あい 永遠に在り』①・・・関寛斎と浜口梧陵

2019-03-10
カテゴリ:その他
大阪を旅したおり、高島屋の7Fへ岡本太郎のモザイクタイル画を見に行った帰りにレストラン街をぶらぶらしていると「つる屋」という日本料理の店を見かけた。
”髙田 郁”小説の、『みをつくし料理帖』の主人公 ”澪”の働く店と同じ名前だなぁと思いつつ、何気なくショーケースを覘くと,
ランチ限定20食「みおつくし」¥1,800-(税込1,994)
すこし食べてみたい気もしたが、ランチタイムを外していたため断念。
いつもは旅のお供に文庫本を数冊持っていくのだが、今回は1冊のみ、それもすでに読み終えてしまった。
高田郁の作品を久しぶりに読んでみたくなり、帰り用の本を物色し、『あい 永遠に在り』を購入。
ものがたりは、江戸末期から明治にかけて活躍した医師「関寛斎」と、その妻「あい」が主人公。
 
寛斎は、上総国(千葉県)の貧乏な農家に生まれた。3歳で母親と死別し、関家に嫁いでいた叔母にに引き取られその後13歳の時養子となる。養父である関俊輔は儒学者で、村で私塾を開いていた。寛斎に「質素、勤勉を信条とし、貧しくとも志は高く持て」と教え、寛斎の人間形成に大きな影響を与えた。この塾には後に妻となるあいも入門していたという。
 
18歳になった寛斎は蘭学の名門、佐倉順天堂に入門する。佐倉順天堂は現在の順天堂大学のルーツで、先進医療を行うとともに医学界を担う人材を育成し、大阪の緒方洪庵の適塾と並ぶと評される。貧乏な塾生であった寛斎は周囲からは「乞食寛斎」などと呼ばれて随分と苦労しながら修業し,師である佐藤泰然から手術を任されるまでに成長する。

その後”あい”と結婚した寛斎は、佐藤泰然の勧めで千葉の銚子で開業し、そこで生涯の恩人となると浜口梧陵と出会う。人材育成や社会慈善事業に深い関心を持ち、資金援助などをしていた人物だ。
話はそれるが、浜口梧陵について少し語ってみたい。

浜口梧陵は現在のヤマサ醤油の七代目当主で『稲むらの火』のモデルとして知られる人物である。
梧陵は1854年安政南海地震津波に際し、避難の道しるべとして稲わらに火をつけ、村人を無事に高台に避難させ、多くの人命を救った。
その後、食糧の確保や借家の建設、農商業者への低利で資本提供、や破損した橋の修理を行い、さらに高さ4.5メートル、奥行き20メートル、延長約670メートルと云う大防波堤の建設を行っている。堤防の周りに、村人が海に引き込まれるのを防ぐ600本の松や、現金収入となるはぜの木(ろうそくの原料)を植えた。これらの事業は失業者に対する復興対策の一面もある。
梧陵は、「緊急対策」⇒「復旧対策」⇒「復興対策」⇒「防災対策」と、現在でもお手本となるような流れで災害後の地域復興に貢献した。これらの復興と防災に投じた4665両という莫大な費用は全て梧陵が私財を投じたものである。こ堤防の建設の際、梧陵は「住民百世の安堵を図る」との言葉を残している。
堤防完成から88年後の1946年(昭和21年)、広村を昭和南海地震の津波が襲ったが、この堤防のおかげで被害を減らすことができたという。

これらのストーリーは、全国初の「防災遺産」として2018年、文化庁より「日本遺産」に認定された。
「百世の安堵(あんど)」~津波と復興の記憶が生きる広川の防災遺産~
https://www.town.hirogawa.wakayama.jp/kyouiku/japan-heritage-hirogawa.html

 

ものがたりに戻る。
寛斎30歳の時、梧陵は長崎留学の援助を申し出るが、寛斎は「他人の懐をあてに留学などできない」と折角の申し出を断り席を立つ。
梧陵は妻のあいにこんな話をする。

「紀州に大津波が襲った時に、私は稲村に火を放ち、皆を高台へ逃がす標としたことがありました。

その一事をもって偉人の如く持ち上げる人は多いが、私の中では誇るべきことではないのです。一瞬の機転と巡りあわせがさせたこと。それよりも、私自身が誇らしく思うのは・・・・・

二度と同じ思いを郷里の人々にさせたくない。その一心で、およそ四年をかけて頑丈な堤を築いたことなのです。私が息絶えた後も、郷里を津波から守ることができる。そうした堤を築けたことが私の一番のほこりなのです。」
「あいさん、あなたの夫、関寛斎は、この国の医療の堤になる人だ」と。

(高田郁著 『あい 永遠に在り』 より)

 

あいはその話を 寛斎にして、「長崎に行かないのであれば離縁する」と説得し、長崎に留学することとなる。
寛斎は長崎で1年間、医学伝習所(長崎大学医学部の前身)教授のオランダ人医師ポンぺの下で近代西洋医学を学んだ。ポンぺは、日本初の系統だった医学を教えるとともに、相手の身分や貧富にこだわらない、きわめて民主的な診療を行ったっていた。
ポンペが長崎時代に残した言葉が、長崎大学医学部の玄関ホールに残されている。
 
「医師は自らの天職をよく承知していなければならぬ。ひとたびこの職務を選んだ以上,もはや医師は自分自身のものではなく,病める人のものである。もしそれを好まぬなら,他の職業を選ぶがよい。」
 
ポンぺも寛斎の人格形成に大きな影響を与えた1人であろうことは、その後の生き方にあらわれている。
留学から戻った寛斎に、梧陵は長崎での留学を続けるよう勧めたが、さらなる援助は潔しとせず、翌年徳島藩の藩医となり徳島へ移住する。
この際に梧陵はこんな言葉を送っている。

「人たる者の本分は、眼前にあらずして永遠にあり」本書のサブタイトルである。
 
つづく

 

 

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