28:

昨夜、革命的な相撲のルールを思いついた。
昨今といえば、相撲にはあまりいいニュースはない。八百長、大麻、暴力問題他いろいろである。
なんとなく、相撲にはルール以上の一般的な人間にもよく分からない“相撲道”たる暗黙知のようなものに縛られているがゆえに、滑稽なことで問題になる。
たとえば相撲界きってのKY・朝青龍が2008年5月場所・千秋楽で横綱白鵬に引き落としで勝った時問題になったことがある。しかもその問題が「にらみ合い」なのである。

朝青龍に負けて土俵上で四つんばいになっている白鵬を、朝青龍がさらに横から駄目押しした。その行為に対し白鵬が立ち上がりながら朝青龍に右肩をぶつけ、両者がにらみ合う事件が起こったのである。この事件では北の湖理事長が朝青龍と白鵬を厳重注意した。
というのがあるが、そもそもなんでこれがわざわざ問題になるのか、説明を受けないとほとんどの人分からないんじゃないだろうか。少なくとも、僕のような相撲を格闘技だと考えている軽い人は、全くよく分からない。
つまり、相撲には素人には分からない高い精神性があるのである。日本の「道」は何でもそうだ。剣道、茶道、華道。技術だけではなく、精神性がそこに同様に担保されていないと、道を極めた者として認定されない。これが関係ないのはせいぜい「国道」ぐらいのものである。それは国技として相撲を守るファイアウォールとしての役目もある。
で、僕は個人的には日本のそういうとこ、大好きだ。というのも、技術なんていうものは、才能と努力で誰にでもなんとかなるのである。でも、究極の戦いの場というのは、才能や努力は十分しきって、技術を人間の限界まで高めた人しかいないので、もはやそれでは差がつかない。その先は心までがいかに研ぎ澄まされているか、そこで勝負が決まるのだ。僕は日本のそういう戦いや技巧に感動を忘れたことはない。日本万歳!といつも思うし、世界最強のセンスだと思ってる。

でも、相撲に関しては、テレビで問題になることのどこが悪いのかよく分からないことが多い。その悪さについて説明を受けてからでしか、悪いかどうか判定できないわけだから、逆に言えばそこで楽しみ方が別れてしまうというのも退屈だなと思ってしまう。
そこで僕はまったく新しい相撲の形を提案したい。
その名もツイン土俵である。
その名のとおり、まず土俵を2つ用意する。
まず試合の流れから説明しよう。東西からそれぞれの力士が入ってくる。そして土俵に上がるのだが、ここでまず、戦いがある。どっちの土俵で戦うか、でまず戦いがあるのだ。たとえば東の力士は東側の土俵がホーム土俵となり、その逆はアウェーになる。つまり、”自分の土俵”で戦えるかどうかで、まず力士を戦わせるのだ。
そして、それぞれの土俵にのみ、その相撲部屋の作法を適応するのだ。たとえば、塩の量はあまり多すぎると無礼に当たるだとか、四股をふむときにあまり高く上げると無礼だとか、その力士の部屋文化を土俵に反映させるのだ。よって、アウェーのところで戦う力士が相手の部屋文化に従わず無礼なことをすると、それはすなわち挑発として機能し、その逆も然りであるというゲーム性を付与するのだ。
つまり、ホーム土俵で相撲をとれることがアドバンテージになる、という側面を従来の相撲にプラスするのだ。
こうすれば、まず入場した段階で、両者が別々の土俵に立った瞬間、いかにして相手を自分の土俵に誘い込むかで戦いが生じ、醍醐味になること請け合いだ。これが面白いはずだ。じっとにらみ合い、気圧された側が相手の土俵で相撲をし始めたり、あるいは近づいて張り手の1発でも飛んだ瞬間、そこから試合開始ともなる。
八百長についてもより露骨に分かりやすくもなるし、試合が始まる前に「物言い」もついて会場が沸く。
土俵をいかに使って戦うかで、相撲部屋の精神文化を可視化する、とも言えるだろう。
こうすることで、精神性の縛りを部屋単位にすることができる。相撲界全体での“あるべき姿”を解体するのだ。それは同時に、相撲の精神性をキープした上で、参入障壁を低くすることにもつながる。何が起こって何が問題になっているかが「相手の土俵で無礼なことをしたから」ということに一元化されるために、非常に分かりやすくなる。
「自分の土俵」という日本語を、相撲でやったらどうなるだろう? と思って考えてみた。さあ、どうかな?

26:

ロフトワークのオウンドメディア『Webエキスパート』にて、豚組・中村仁氏のインタビュー・執筆を担当しました。
最近口コミのやらせが話題になりましたよね。☆の多さで数々のお店を評価してきた消費的な飲食は、本当に豊かな時間の過ごし方なのか考えさせられました。美味しさってお腹がいっぱいになるだけでは味わえないものかもしれませんね。ひとと飲食店が口コミサイトによって失ったものを取り戻すにはどうすればいいのか。口コミの再発明からヒントを探ります。
ー予約はTwitterにて。
スペイン産イベリコ豚から沖縄の琉香豚まで多種多様の豚肉を揃え、こだわり抜いた『究極のとんかつ』をふるまうことで話題の豚肉料理店・西麻布 豚組。同店はそのこだわりのメニューはもちろん、マーケティングや集客をTwitterで行っていることで話題だ。オーナーの中村仁氏は、@hitoshiとして、Twitter上で予約を受け付け、顧客と気さくに対話する。そのストーリーは著書『小さなお店のツイッター繁盛論 お客様との絆を生む140文字の力』に詳しい。多くの店が同様のアプローチをとっている現在だが、先駆けである同店は、独自の「世界観」を確立し、今なお拡大をしている。
今回、Twitterマーケティングでの成功事例を伺うため中村氏にインタビューを敢行。その結果、Twitter話以上に、ソーシャルメディアの次の一手『miil』というiPhoneアプリの興味深い話を聞けた。飲食産業における“クチコミ”の再発明、そして、食そのものをコミュニケーションメディアにすること。この中村氏の新たな挑戦とソーシャルエンゲージメントの手法について紹介したい。飲食関係者はもちろん、どの業界にも通じる“場づくり”のヒントとして活用してほしい。
【前編】
20:

紙とペンで日記を書いていて思うのは、運動的な文章の書き方だということ。パソコンを使って書くのとは、もちろん違う。でも、どっちが良いだの言うつもりはない。両方とも、必要だからそうなっているのだから。
一体何が言いたいのかというと、意識的に文字を書かないと、現代というのは運動的な文章というのがどんどん失われている時代だ、ということにこの間、あれはたしか柿の種でコーヒーを飲んでいた時に気がついた。
キーボードを叩けば済むことばかりになってしまった。もちろん僕も、WiMAXの解約が基本的に文通(解約書面を送付する)であることに爆笑するほどにこうしたデジタルなモノや現象に積極的な人ではあるけれど。
そんな時代だから、実際に紙の上で手を動かして文章が生まれていくのは面白い。
それに、何か新しいものが古いものに取って代わるときというのは、しばし略奪や支配や侵略だと思われるものだけど、実際は、古いものが問われている瞬間であることが多い。その問いに答えを出せれば、そこでそれは古いものにはならず、別の何かになる。今まで文化はずっとそうしてきたのだ。そんなことを考えると、手を使って文章を書くことに、何か救世主的な、少し使命感を感じるというものだ。
そう、僕がきっと、言葉を救う。
身体をつかって書く文章というのは、非常に物理学的なものだ。まず重力の影響を受ける。当然だが、下に向かって書かざるを得ない。壁などに押し付けて書いてもいいかもしれないが、わざわざそれをやっても誰もなにもほめてくれんだろう。
さらには湿度の影響も受ける。湿度が高いものに書けば必然的にインクはにじむし、逆に乾燥しすぎていると、紙がデコボコになったりする。
その上を、ペンが走るのである。そして走らせるのは自分の手であって、その手の筋肉を動かしているのは自分の脳だ。運動野を使う、さらに言語野には、いつも素敵な言葉を書かせてくれる謎の男がそこに住んでいたりもする。
このように、手で紙に書く文章は非常に体育的なのだ。パソコンでキーを打つプログラミングのような文章に比べれば、もはや障害物競走である。これが今、面白いのだよ。
さて、パソコンというものは、そのプログラミング的な文章な書き方だけでなく、日記の存在も変えてしまった。かつてのドラマでは日記は見られたくないもの、日記を見ることは失礼なことであった。
でも、ひょっとして今の子供たちにはこれは冗談にしか聞こえないかもしれない。今の日記は太っ腹であり、なんと全世界公開が基本である。
や、もちろん僕もそういうタイプの日記でこの文章を書いているから、もうシッチャカメッチャカなんだけれどもね。それに便利だし。だってこれだけ長い文章を実際にノートに書くとなると大変だからね。それに自分のために書くことに、そこまでする価値はあるのか、なんて思ってしまう。そう、日記はもう、自分のものではなくなっているのである。シェアは今、車から日記まで、思うがままなのだよ。
そこで、自分のために書いてみる。これがとても新鮮だったりする。
でも、日記帳というのはどうも曲者で、サボった日が後になって明らかになる日本人的な仕組みになっている。これがあまり楽しくないので、僕の日記には日付がない。
・急速冷化珈琲の午後
・300メガバイトの夜
・誤字の朝
という具合に、思い出すのに少し時間がかかる日付の書き方をしている。日付というか、数字的な日付を書かないのだ。文学的で相対的で、非科学的で非効率な日付の書き方をするのだ。
不便じゃないか、というのはある。でも、利便性を求めて日記を書くと、それはもう何かの記録であって記憶ではない。僕は記憶を書き残したい。だから、思い出すのに自分の記憶力を半分使うこの仕掛けをつくったのだった。それにこうしておけば、いつサボったかも見えないし、日記を書くのが嫌になったら、それは自由帳か何かだったということにしておけばいい。
そう、人生では時に逃げ道が近道よりも大切なことがあるのだ。
それにどうせ人間なんて、死ぬまで脳をほとんど使わないんだし、こうやって使ってあげれば、きっとそれはいいことだから。
万年筆をお使いの人は、モレスキンより、LIFEのノートがオススメ。にじまないし、デザインもかわいい。そもそも、モレスキンて真っ黒で地味だし、全然楽しくない。おまけにタダのノートなのにすごい高いし。と、最後に敵を作ってこの日記を終える。
たくさんの仲間をつくるためには、たくさんの敵が必要なこともあるのだ。
09:

『ロング グッドバイ―パパ・タラフマラとその時代』という書籍を、ほんの少しですが、ライティングをお手伝いさせていただきました。

僕はとりたてて演劇が大好きというわけではないけど、演劇にとって一番根本的な面白さである、“「作品」が目の前で起こっている作品”であるという点において、演劇は好きだ、と答えることにしている。
この本は非常にクリエイティブで存在感のある劇団であるパパ・タラフマラが、残念ながら解散を迎えるということから生まれた。いかに素晴らしくても、運営ができなければ消えていってしまう芸術というものが、この日本にはあるという現実を、港千尋、谷川俊太郎、天童荒太他の豊富な執筆陣と、様々な切り口のインタビューで描いている。
僕はその中でも、寺山修司の天井桟敷舞台監督を経て、87年、有限会社アップリンクを設立した浅井隆氏と、パパ・タラフマラ代表・小池博史氏ほかの鼎談記事を担当しました。
この本は悲しみから生まれているのだけれど、未来に何かの喜びになればいいな、と感じながらお手伝いさせていただきました。
購入はこちらから。
06:

CINRA.JOB にて、AID-DCC Inc.のプログラマー、木下 勝さんを取材しました。この人面白かったあ。とりわけプログラマーには変な友人がいろいろいるけど、この人も変だった。
会社の喫煙所でお香を炊いて、ヨガをするのが日課らしい。こう書くとほら、ジョブズなんかも東洋思想に傾倒しているからちょっとオシャレに見えるけど、実際、
カチカチボッ(お香着火)
・・・・(ヨガ中)
ガチャ(喫煙目当てで社員入ってくる)
社員「!!」
・・・・(ヨガ中)
社員(笑)(とりあえずタバコ着火ボッ)
みたいな風景になるに決まってるわけである。面白い。
でも、ただ変なだけじゃなくて、これだけプログラマーというお仕事について真摯なお話を聞けたのも初めての経験だった。プログラマーは、社会の隙間を埋めるパテのような存在なんですって。僕そういうの素敵だと思う。
僕も、社会の隙間にちょっといいことを書いていけるような書き手になりたいな、なんて思いながらお話を聞いていました。またお会いしたい人です。
インタビューはこちらから
05:

ダイヤモンド・オンラインにて、フェデックス キンコーズ・ジャパン社長 須原清貴氏と、ビズリーチ南壮一郎氏の対談原稿を執筆いたしました。
オンデマンドプリンティングサービスの代名詞、フェデックス キンコーズ。家庭用のプリンターやコピー機が普及しニーズが縮小、苦戦を強いられていた同社日本法人を、わずか1年あまりで黒字化させた須原氏。企業再生の秘訣は、与えられた条件の中でいかにしてベストを尽くすかを会社全体で考えること、そして人材にあった。また同氏は住友商事やボストン・コンサルティング・グループといった名だたる企業でのキャリアの持ち主。しかし、英会話学校GabaのCOO時代に業績のスローダウンという困難に直面する。その経験をも活かして、フェデックス キンコーズを再生させたバイタリティーに迫る。
【前編】【後編】
