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スタッフブログ

那珂川町馬頭広重美術館2・・・青木藤作藤作と徳富蘇峰

2019-03-04
カテゴリ:その他
関東探勝記(徳富蘇峰著)
「那珂川町馬頭広重美術館」は、青木藤作のコレクションをご遺族から寄贈されたものである。
藤作は、明治から昭和にかけての言論人・評論家・史学家である徳富蘇峰から様々な影響を受けている。

蘇峰は明治20年に言論団体「民友社」を設立し、月刊誌『国民之友』を主宰した。蘇峰はその中で平民主義を主張し、時代の言論・思想界に大きな影響を与えた。また、文学にも力を入れ、坪内逍遙、幸田露伴、樋口一葉、泉鏡花、国木田独歩など当時の一流文学者や新進作家も寄稿している。森鷗外の『舞姫』も『国民之友』誌上に発表されたものである。
藤作も大きな影響を受けた一人である。
創刊号を手にした藤作は深い感銘を受け、翌年には蘇峰のもとを訪ねている。 以後蘇峰と藤作は子弟として、支援者として、友人として、終生交流していく。青木コレクションは、そんな蘇峰の影響もあったのかもしれない。
 
蘇峰という人は、塩原温泉にも縁がある。
関東大震災で蘇峰が建てた仮の執筆所「一枝庵」を藤作が譲り受け、現大田原市の佐久山に移築した際、開庵式に招かれた蘇峰はその後黒羽・塩原・那須と小旅行を楽しんだ。

この時の様子はその後出版された小冊子「関東探勝記」"野州小遊記"に記されている。
この企画がこの時期に実施されたのは、蘇峰や婦人へのいたわりのためであり藤作に感謝を述べている。
 
一は塩原の秋色を賞するに絶好の時節のため、一は過日突発した家庭の不幸-子萬熊の病死-を慰藉(なぐさめいたわること)畝らるる為であらう。予等は君が不言中の深き心入れを感謝して、欣然(よろこんで)此行を偕(とも)にした。』
(野州小遊記より)
 
また、塩原温泉について絶賛しており、次のように記してある。
 
沿道の光景は、かれこれ云うだけが野暮である。昨夜の厳霜にて、単に木葉を染めたのみならず、亦た木葉を落としつつある。風なきに紅葉が、空より舞ひ下るの情趣は、なんと申すべきか。』
(野州小遊記より)
 
この際、塩原温泉の老舗旅館「明賀屋」に宿泊している。「明賀屋」の”太古館”は、蘇峰が塩原を訪れた際に「静かなること太古の如し」と感動して命名したそうだ。※注1
ちなみに、現在の太古館は2代目で、和洋折衷式建物で、帝国ホテルの設計者といわれる鈴木愿一郎の設計だそうだ。

明賀屋本館ホームページより
<http://www.myogaya.com/taikokan.stm>
 
※注1:徳富蘇峰の「関東探勝記」によれば、佐久山の青木藤作に招かれて蘇峰が塩原を訪れたのは大正十三年十月ですが、明賀屋さんのhpでは”大正初期に来館”とあります。(これ以前にも訪れた可能性もありますが、文の印象だと初めてのように感じます。)
  塩原文学研究会発行の「ようこそ文学散歩Ⅱ(P69) 」によれば、"大正初期に来宿した高崎正風により「太古館」と名付けられた”とあります。(蘇峰命名説も併記してます。)
 高崎正風は、御歌所初代所長で、明治天皇の和歌の師 ですが、亡くなったのは”
明治四十五年だそうです。
 いつ命名されたのか?
 誰が名づけたのか?
 謎です。
 コナン君(又はミステリーハンターさん)、出番です。
(2022.1126補足・修正)
徳冨蘆花文学碑
徳冨蘆花文学碑(木の葉化石)
徳富蘇峰の弟である小説家の徳冨蘆花も、塩原を何度も訪れており、その著書「自然と人生」や「青蘆集」において塩原温泉を紹介している。蘆花は、兄蘇峰が主宰する民友社に入社するが、やがて国家主義的傾向を強める兄とは次第に不仲となり、やがて絶縁状態となるが、塩原のことについては兄弟そろってほめてくれている。
塩原温泉にかかわるものとしてはとてもありがたいことである。
(箱の森プレイパークの手前にある木の葉化石園と、大正浪漫街道 連珠の滝前には蘆花の文学碑がある。近くを訪れた際は、箱の森プレイパークにもお立ち寄りを)
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