本文へ移動

スタッフブログ

『あい 永遠に在り』②・・・関寛斎と徳冨蘆花と恩人たち

2019-03-17
カテゴリ:その他
1週間のご無沙汰です。
前回のブログ↓↓↓の続きです。
 
 
徳島藩の藩医になった寛斎だが、引き立ててくれた藩主蜂須賀斉裕が急逝、その後戊辰戦争が勃発して従軍医師、奥羽出張病院の院長となる。寛斎は、敵味方の区別なく治療し、それらの行為は赤十字精神の西郷隆盛や大村益次郎らから高く評価された。この功績が高く評価され栄達の道もあったが、固辞しする。
 
再び徳島へ帰り、以来三十年間開業医として地域の医療に尽くした。貧しい人達からは診療費を取らず、無償で種痘を施した人数は数千人に達し、庶民に「関大明神」と慕われた。戊辰戦争が勃発すると新政府側の奥羽出張病院頭取として負傷者の治療にあたった。その後、徳島に戻り徳島藩医学校を創立、明治6年(1873)、禄籍を奉還し町医者として、以降30年間地域医療のために尽力する。貧しい人々には無償で治療を施すなど、地域の人々から厚く慕われた。
 
晩年、寛斎は理想的な農業を目指し、北海道の斗満原野(現在の陸別町)に1500町歩の貸し下げ許可を受けて開拓に動き出す。
陸別町と言えば、「日本一寒い街」として知られており、現在はそれを逆手に取って”しばれフェスティバル”「人間耐寒テスト」などのイベントも開催されている。気象庁のデータでは、1月の平均気温は-11.4℃、最低気温は-20.2℃。まさに極寒である。
明治の末期、まだ鉄道も無く、現在のような優れた防寒着や装備も無く、ヒグマやニホンオオカミなど危険な動物も多く生息したであろう未開の地である。土木機械も無く牛馬や人の手で行う開墾作業は想像を絶する過酷なものであろう。まして72歳という高齢である。その行動をすき動かすエネルギーはどのようなものであったのか。
 
寛斎はキリスト教の慈悲の心で進歩的農場経営をしていたトルストイに心酔していた。同じように理想の農業を目指して豊頃に入植した二宮尊親(二宮尊徳の孫)※1を訪れ、この農場が入植者に土地を分け与えているのを知り、自らも共鳴して開拓の方針を二宮尊親が経営する興復社の自作農育成に求めて「積善社」を結成し開拓を進めていった。
 

寛斎は、徳冨健次郎(蘆花)とも交流があったという。蘆花は寛斎同様トルストイに傾倒しており、明治39年は夫婦で実際に会いに行ったりもしている。蘆花と寛斎は、書簡のやりとかだけではなく実際に世田谷の蘆花の家を訪れたり、蘆花も陸別を訪れている。これらは蘆花の「みみずのたはごと」にも記載がある。

徳冨蘆花「みみずのたはごと」より
明治四十一年四月二日の昼過ぎ、妙な爺さんが訪ねて来た。北海道の山中に牛馬を飼って居る関と云う爺と名のる。鼠の眼の様に小さな可愛い眼をして、十四五の少年の様に紅味ばしった顔をして居る。長い灰色の髪を後に撫でつけ、顋に些の疎髯(そぜん)をヒラヒラさせ、木綿ずくめの着物に、足駄ばき。年を問えば七十九。強健な老人振りに、主人は先ず我を折った。
 
しかし、農場を開放して小作人を自作農にしたい寛斎と家族との意見が合わず、苦悩の末に服毒自殺している。

先日、陸別町の町民文芸誌「あかえぞ」35号(2018年11月発行)で、服毒自殺ではなく事故死かピストル自殺だった可能性を示す資料が紹介され話題になっているらしいが、真相は知る由もない。
自殺の原因としては他に、明治天皇崩御・乃木希典の殉死・自身の心身の衰えなどが考えられているそうである。
寛斎は生前「わしは、婆さん(妻・お愛)の織ったものしか着ない」といって、実際に手織りの木綿しか着ず、北海道でも変りがなかったそうである。あいが亡くなった後も「ババはわしよりえらかった」などと語っており、長年連れ添った妻が亡くなったことで気力の衰え等もあったのかもしれない。
 
 
司馬遼太郎は小説『胡蝶の夢』で、寛斎を「高貴な単純さは神に近い」と語っている。彼が拓いた陸別町では、関神社に祭られている。こんな寛斎の人格は、養父である儒学者関俊輔の教え、佐倉順天堂での経験、梧陵の「人たる者の本分は、眼前にあらずして永遠にあり」との導き、ポンペの人道的な医療教育などにより培われたものであろう。
理想を求め、常にストイックで高潔な寛斎の生き様は、驚嘆に値する。
 
 
寛斎が亡くなってから9年後、4,000haを超える広大な農場のほとんどは小作人らに開放され、その遺志が達成されたという。
現在、関寛斎あい夫妻は、あいの遺言どおり、陸別町を見渡せる小高い丘に一緒に眠っているそうである。
 
 
 
 
近所の二宮神社の碑
※1:二宮尊徳は江戸後期の農政家,農村復興の指導者。通称は金次郎で、昔は薪を背負いながら本を読んでいる銅像があちこちの学校に設置されていた。(現在は子供が像の真似をして本を読みながら道路を歩くと交通安全上問題があることから減少している)早く父母を失い、苦学をして没落した家を再興。その後小田原藩をはじめとする諸藩・諸村の復興に尽力した。各地に神社や碑が建立され、人々に愛され、尊敬されていた人物である。
報徳二宮神社の尊徳像には「経済なき道徳は戯言であり、道徳なき経済は犯罪である」という言葉が掲げられている…らしい。

 二宮尊親は、二宮尊徳の孫で1855(安政2)年、現在の栃木県で生まれ、祖父の意思を受け継いで設立された興復社に2代目社長として就任。北海道て理想の農業を実践るために開拓に乗り出す。晩年は、報徳学園の2代目校長に就任した。二宮尊徳の教えである「以徳報徳」の精神を身につけた青年を育成するために設立された学校である。
TOPへ戻る