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スタッフブログ

那須塩原のイチロー

2019-03-25
カテゴリ:その他
正二位勲一等
イチローが引退しました。
多くの人は、彼を天才と呼びますが、彼をよく知る人は"努力の天才"と呼びます。
野球と真摯に向き合い、目標を成し遂げるために、小さな努力を重ねることで、今のイチローがあるのだと感じます。
 
イチローのプレーで最も印象に残っているのが、2009年の第2回WBC決勝。
大会前の練習試合から絶不調のイチローでしたが、決勝の韓国戦で、最後の最後に決勝タイムリーを放ち、ファンや監督・チームの期待に答えました。
その日はたまたま仙台に用事があって、帰りのサービスエリアでテレビ観戦してましたが、タイムリーを打った瞬間はまさに鳥肌ものでした。
 
 
明治初期、那須塩原にもイチローがいました。
名を 藤田一郎といいます。
当時の日本のTOPである、太政大臣:三条実美を始め、岩倉具視、大隈重信、伊藤博文、佐佐木高行、大隈重信、松方正義などなど、多くの名士たちと交流があったそうです。
(ちなみに、イチローは現役を理由に国民栄誉賞を辞退していますが、上記の明治の皆さんはすべて大勲位又は勲一等を受賞してます。)
結構顔が効いたようで、1876年6月、明治天皇東北御巡幸の時、岩倉具視に久し振りに会い、那須野が原開墾について進言したりもしたようです。(岩倉具視には、”口八丁・手八丁”などと言われながらもかわいがられていたようです。)
 
一郎の実家には、岩倉具視直筆の書や、色々な人物との書簡などが数多く残され、近くの学校等には、一郎が書いてもらった三条実美を始めとする有名人の書などが残されているそうです。(実家にあった資料の多くは、那須野が原博物館に寄贈されたそうです。)
 
 
偶然ですが、お彼岸前に実家近く神社にあるお墓を掃除しているとき、そばにある二宮尊徳の碑に「正二位勲一等 伯爵 東?????書」と彫られているのを見つけました。
明治末期・正二位勲一等・伯爵の東なんとかさん をネットで探したら、『東久世 通禧』という人物がヒットしました。
東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ)について調べてみると、日本の江戸時代末期から明治時代にかけての公家、政治家で、"七卿落ち"の1人です。開拓長官、侍従長などの要職を歴任し、後に貴族院副議長・枢密院副議長も務めたそうです。
一郎と交流のあった三条実美も"七卿落ち"の一人なので、その辺のコネで書いてもらったのかもしれませんね。

"七卿落ち"なんて、中学校は高校で習ったような記憶があるぐらいでしたが、歴史の教科書や司馬遼太郎の小説に出てきそうな人たちも、なんとなく身近に感じることができました。
伯爵
東久世
通禧
東久世 通禧
二宮尊徳の碑
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